新城探訪記〜山の湊新城の神社・お寺

大好きな町、山の湊新城をご紹介。神社、お寺、石造物が中心になるのかな。有名なところはすっ飛ばして、コアなところばかりかもしれません。

平吉大明神・内井道南

厳島社の鳥居を潜ると、すぐ右の足元に石碑があります。今は草木に覆われていて、気をつけないと見過ごしてしまいます。これは平吉大明神と言って、昔かさの病気(天然痘のことか?)で亡くなった人が祀られているそうです。この神様に「かさで難儀してますか…

厳島社・内井道南

県道392号新城引佐線で弁天橋に至る手前のカーブで鳥居が見えます。内井道の厳島社です。空堀のような参道を通ると、トトロの世界に入っていきそうです。神前の灯籠は破損が激しいものばかりです。天明5年(1785年)の銘があります。自然石を穿った手水鉢がな…

弁天橋顕彰碑・内井道

弁天橋から100mと少し市内側に大きな顕彰碑が立っています。離れすぎていて、橋との関係に気づきにくいくらいです。奥に見えるこんもりした森が厳島神社、その向こう側に弁天橋があります。かなり大きな石碑で、びっしりと文字が刻まれています。台座の部分…

弁天橋顕彰碑・内井道

弁天橋から100mと少し市内側に大きな顕彰碑が立っています。離れすぎていて、橋との関係に気づきにくいくらいです。奥に見えるこんもりした森が厳島神社、その向こう側に弁天橋があります。かなり大きな石碑で、びっしりと文字が刻まれています。台座の部分…

弁天橋・内井道南

新城で「赤い橋」と言ったら通じるくらい親しまれている橋。県道392号新城引佐線が豊川を渡るところに架かっています。昭和31年(1956年)に造られ、橋長97.8m、橋幅5.3m。名前は橋の袂にある厳島神社に因んだものです。橋幅に対して交通量が多く、危険である…

学橋・日吉

新城市の健康の道の途中に、とても味わい深い石橋があります。舟着こども園の脇、古田喜三郎先生碑の横の道から入っていきます(観光の道のルートでは川の向こう、日吉神社の方からです)。近くの舟着小学校のマラソンコースなのでしょうか、ちょうど矢印が書…

大野田城跡・野田

中市場の津島神社側に、明治期に作られた中市場池という溜池があります。この池は大野田城の本丸跡を切り崩して作られたもので、道路沿いに説明看板が立てられています。池の向こう側に市の指定文化財であることを示す白い碑が立っています。少し前までは鬱…

延寿庵・八名井

八名井を通過中、ナビに「回寿庵」と表示が出たので探索に。狭い路地の交差点に小さなお堂と灯籠を発見しました。806年に弘法大師によって開山されたと言われる八名井の今水寺。その12坊の一つがこの延寿庵(円寿庵とも)です。あれ? 回寿庵? 延寿庵?新城市…

琴森稲荷・大野

永明庵跡のある東陽小学校のプール脇に「霊感あらたかな琴森稲荷」の看板があり、山の中に続く細い道が見えます。数年前までは登り口にも真っ赤な鳥居があり、お稲荷さんがあることが明確でしたが、古くなって危険だったのか、現在は撤去されています。ジグ…

永明庵跡・大野

臨済宗方広寺派の永明庵(ようめいあん)は、十一面観世音をご本尊とするお寺でした。少し離れた東南の山中に修行堂を持っていたと伝わりますが、琴森稲荷のことでしょうか。江戸末期に衰退し、廃仏毀釈の影響で無檀無住となっていたので、明治11年に淵龍寺に…

瑞穂稲荷と不二庵跡・大野

大野の旧街道を進むと、たくさんの花が咲いている一角があります。そこに「不二庵跡」「瑞穂稲荷」と書かれた看板があります。花だけでなく、立派な枝ぶりの松もあります。手入れも行き届いています。曲がってみると「庚申石仏」の文字も。期待が膨らみます…

淵龍寺・大野

天徳山淵龍寺は、臨済宗方広寺派で、ご本尊は十一面観音菩薩です。開基は応永10年(1403年)方広寺の第二世悦翁和尚で、大野の領主鈴木喜三郎の縁者でした。和尚は大野にあった禅林寺で修行していましたが、喜三郎が禅林寺を今の場所に移して淵龍寺となったよ…

大野頭首工と桜・大野

新城市には三河嵐山と呼ばれる桜淵公園をはじめ、たくさんの桜の名所があります。旧鳳来町の大野地区にある豊川用水の大野頭首工もその一つです。豊川は長篠城の直下で寒狭川と宇連川に分かれます。飯田線や宇連川沿いに車を走らせると、見えてくる頭首工。…

咳の神様・宮ノ前

宗堅寺というお寺の墓地の奥に大きな枝垂桜があり、これから見頃を迎えます。その木の周りには歴代住職のお墓が並んでいますが、その横にぽつんと小さな祠が建っています。二つ並んだ祠には、咳の神様が祀られています。昔、お寺の前で倒れた人が、自分を祀…

宗堅寺・宮ノ前

幸雲山宗堅寺は、曹洞宗でご本尊は釈迦牟尼如来、文殊菩薩と普賢菩薩を脇立としています。野田城の戦いで武田信玄を狙撃したと伝わる信玄砲を所有する寺として有名です(現在は設楽原歴史資料館で展示)。天正元年(1572年)、野田城主菅沼定盈が建立した桐谷山…

淨泉寺・宮ノ西

新城駅への入り口にある淨泉寺は、山号を片桐山といい、真宗大谷派のお寺です。吉田城主池田輝政の家老片桐半右衛門が新城城に入り、母明連尼のために宗堅寺の西に建てた淨泉庵がその始まりです。後に半右衛門により淨泉寺でされ、慶安年間に現在地に移され…

大徳寺・豊栄

臨済宗南禅寺派の大徳寺は、山号を福聚山といい、正和元年(1312年)の草創と伝えられています。当初は今の裏山に建立されましたが、十一世和尚の時に現境内地の前の畑に移転し、更に元和年間(1615年〜1624年)、十四世和尚が現在地に伽藍を整備しました。現在…

石雲寺・名号

臨済宗方広寺派の石雲寺は、永禄元年(1558年)に琪庵霊光和尚によって創建されました。当初は名号山石雲庵と称したようですが、いつの頃からか永源山石雲寺と改められたようです。ご本尊は虚空蔵菩薩で、宝暦3年(1753年)の地蔵菩薩の掛け軸を所蔵しています。…

長篠城の御城印と紅葉・長篠

大河ドラマに向けて、来城者も増えてきているとのことで、12月1日より新しい御城印が販売されています。市内在住の書道家今村冴里さんによるひらがなバージョンが2種類です。ただの色違いではありませんよ。よ〜く見て下さい。字や配列や形が違いますね。背…

福住寺の大銀杏・宗高

平井の宗高地区には、福住寺の大銀杏があります。隣の楠と背比べするかのように育った木は、樹齢どらくらいなのでしょうか。現在は国道151号線がバイパス化し、旧道沿いのこちらは地元の人しか通りませんが、みんな毎日楽しみにしているでしょう。境内には黄…

城薮稲荷・長篠

長篠城のすぐ北側にある大通寺に、城薮稲荷という小さなお社があります。元は長篠城鎮守の稲荷のお使い、おとら狐を祀ったものです。長篠・設楽原の戦いの後、稲荷の本社は城と一緒に新城に移ったようですが、元の稲荷は末社として城内に残されました。しか…

諏訪社・杉山

国道151号線バイパスを走っていると、いつも気になる建物があります。地元の人にはネズミ捕りの場所として知られている場所ですが、民家ではないようです。気になるのはこの小さな建物です。どう見てもお堂かお社です。でも道からは何も見えません。「こんに…

秋葉燈籠・大宮

国道151号線バイパスから大宮の交差点を南に少し下ったところに秋葉燈籠と小さなお堂があります。南を向いているのですが、すぐ隣に大宮大坪組公会堂があるため、いつも暗くてよく見えない場所です。朝、そこを通ったので立ち寄ってみました。秋葉燈籠は、破…

鳶ヶ巣山砦への道・乗本

鳶ヶ巣山砦へは、徒歩と車では道が違います。車で行く場合は本久集会所の横を通って登って行きます。安居院の横を通って行きます。砦への道ですから、こんな細い場所もあります。普通車でも可能ですが、軽自動車をお勧めします。しばらく進むと少し開けた場…

鳶ヶ巣山砦・乗本

長篠・設楽原の戦いにおいて、勝頼の叔父武田信実が陣を敷いた鳶ヶ巣山は、標高150m、長篠城を豊川を挟んで見下ろす位置にあり、信長本陣茶臼山をも見通せる位置です。天正3年(1575年)5月21日未明、酒井忠次率いる約4000名の奇襲部隊がこの鳶ヶ巣山砦と近く…

安居院(大日堂)・乗本

鳶ヶ巣山砦に向かう途中、とても長めの良い場所に大日堂と呼ばれる建物があります。正式には大日山安居院と言います。坂道にあるのであまり広くはない境内ですが、石仏や供養塔などがたくさん並んでいます。火袋の無くなってしまった石燈籠は、宝暦5年(1755…

金刀比羅神社・乗本

鳶ヶ巣山砦の中心地には、車でも行くことができます。何台も停められる広めの駐車場から300mほど歩きますが、その途中に金刀比羅神社があります。神社といっても白木の鳥居と石碑があるだけで、新城市誌にも神社庁の一覧にも載っていません。石碑の裏面には…

武田軍陣地跡の幟旗・新城市乗本・長篠

令和5年の大河ドラマ「どうする家康」に向けて地域を盛り上げようと、長篠城址周辺の武田軍の陣地跡3ヶ所に幟を立てました。一つ目は武田信実が陣を敷き、本多軍に奇襲を受けてしまったことで有名な鳶ヶ巣山砦です。長篠城からは豊川の対岸の小高いところに…

武田軍陣地跡の幟旗・新城市乗本・長篠

令和5年の大河ドラマ「どうする家康」に向けて地域を盛り上げようと、長篠城址周辺の武田軍の陣地跡3ヶ所に幟を立てました。一つ目は武田信実が陣を敷き、本多軍に奇襲を受けてしまったことで有名な鳶ヶ巣山砦です。長篠城からは豊川の対岸の小高いところに…

桃牛寺・的場

曹洞宗の和秀山桃牛寺は、天正4年(1576年)、菅沼定継の家臣城所道寿の孫丸山九郎左衛門吉之が結んだ庵が始まりです。最初に牛が東から木材を運んできたので東牛庵と呼ばました。行基作の十一面観音様を本尊としたそうです。関ヶ原の後、中国の古い詩から東を…