弁天橋顕彰碑・内井道
弁天橋から100mと少し市内側に大きな顕彰碑が立っています。離れすぎていて、橋との関係に気づきにくいくらいです。
奥に見えるこんもりした森が厳島神社、その向こう側に弁天橋があります。
かなり大きな石碑で、びっしりと文字が刻まれています。
台座の部分はコンクリートでできていますが、ちゃんと階段まで作られています。(草で隠れていますが)
「弁天橋の碑」と書かれているのでしょうか。
表面にはこの橋を使った経緯や、尽力した方々の名前が漢文体でびっしりと綴られています。
明治43年と刻まれています。初代の弁天橋は明治に作られたようです。
橋を架けるというのはとても大きな仕事ですが、それによってそこに暮らす住民の生活が一変します。だから今でも新しい橋がどんどんと架けられ、古い橋も何度も架け替えられていきます。一度興味をもつと、なかなか深い世界ですよ。
弁天橋顕彰碑・内井道
弁天橋から100mと少し市内側に大きな顕彰碑が立っています。離れすぎていて、橋との関係に気づきにくいくらいです。
奥に見えるこんもりした森が厳島神社、その向こう側に弁天橋があります。
かなり大きな石碑で、びっしりと文字が刻まれています。
台座の部分はコンクリートでできていますが、ちゃんと階段まで作られています。(草で隠れていますが)
「弁天橋の碑」と書かれているのでしょうか。
表面にはこの橋を使った経緯や、尽力した方々の名前が漢文体でびっしりと綴られています。
明治43年と刻まれています。初代の弁天橋は明治に作られたようです。
橋を架けるというのはとても大きな仕事ですが、それによってそこに暮らす住民の生活が一変します。だから今でも新しい橋がどんどんと架けられ、古い橋も何度も架け替えられていきます。一度興味をもつと、なかなか深い世界ですよ。
弁天橋・内井道南
新城で「赤い橋」と言ったら通じるくらい親しまれている橋。県道392号新城引佐線が豊川を渡るところに架かっています。
昭和31年(1956年)に造られ、橋長97.8m、橋幅5.3m。名前は橋の袂にある厳島神社に因んだものです。
橋幅に対して交通量が多く、危険であることから平成4年(1992年)に上流側には橋幅2.5mの歩道橋が架けられました。
ランガー橋と呼ばれるアーチ橋の一種で、真っ直ぐな橋桁の上にアーチを形成し、縦にまっすぐの鋼材で繋いでいます。
アーチはあくまでも力を逃すものであって、補鋼桁と呼ばれる橋桁の力が強いことがわかります。
この橋があるかないかで住民の生活が大きく変わります。そのため架橋の顕彰碑も少し離れたところに建てられています。
学橋・日吉
新城市の健康の道の途中に、とても味わい深い石橋があります。舟着こども園の脇、古田喜三郎先生碑の横の道から入っていきます(観光の道のルートでは川の向こう、日吉神社の方からです)。
近くの舟着小学校のマラソンコースなのでしょうか、ちょうど矢印が書かれていました。健康の道の表示もあります。
急な坂道ですが、手摺りもあって整備が行き届いています。奥の方に橋が見えています。
昭和33年に改築された素敵な石橋です。苔が味わいを演出しています。以前来た時にはなかった、路肩が崩れるのを防ぐための土嚢が積まれています。
橋の名前は「学橋」。この橋を渡って学校に通ったからでしょうか。下を流れるのは大入川です。
大野田城跡・野田
中市場の津島神社側に、明治期に作られた中市場池という溜池があります。この池は大野田城の本丸跡を切り崩して作られたもので、道路沿いに説明看板が立てられています。
池の向こう側に市の指定文化財であることを示す白い碑が立っています。
少し前までは鬱蒼とした雑木林や竹林だったのですが、ちさと郷土研究会の方々によって、綺麗に整備がされました。池の横の細い道から入って行けます。
入り口には旗が立ち、竹や大鋸屑を使って歩道も整備されています。
建武の新政の頃に富永氏の出城として砦が作られ、応永年間には城所浄古斎の砦として使われていました。菅沼定盈が桶狭間の戦いの後今川を離反し、怒った氏真によって定盈の野田城が攻められました。城を明け渡した定盈でしたが、再度奪い返します。
戦いによって大破した野田城を修復する間、定盈は浄古斎の砦跡を本丸とし、二の丸、三の丸と拡充して大野田城を築城しました。しかし、武田信玄によって攻められた定盈は、城に火をつけ、豊橋の西郷に逃れたと言われています。ただし、近年の研究では長篠に逃れたとも言われています。
現在は椎茸栽培にも利用されていますが、土塁や堀の跡が確認できます。池のほとりには、池を作った時のものであろう石垣と、保食命や御嶽神社の石碑とお不動様の石像がありました。
市の指定文化財を示す碑に向かう道もありますが、「大野田城」の文字は池側に向かっていて、手を伸ばして写真を撮ることしかできませんでした。
たった9年間しか存在しなかった大野田城ですが、今も地域の方々によって大切に守られています。