新城探訪記〜山の湊新城の神社・お寺

大好きな町、山の湊新城をご紹介。神社、お寺、石造物が中心になるのかな。有名なところはすっ飛ばして、コアなところばかりかもしれません。

平吉大明神・内井道南

厳島社の鳥居を潜ると、すぐ右の足元に石碑があります。
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今は草木に覆われていて、気をつけないと見過ごしてしまいます。
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これは平吉大明神と言って、昔かさの病気(天然痘のことか?)で亡くなった人が祀られているそうです。この神様に「かさで難儀してますから、治してください」とお願いすると助けてくれるそうです。明神は神仏習合での神様ですので、平吉さんはまさに「神様、仏様、平吉様」ですね。
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『新城昔ばなし365話』という本に載っている写真では左側に「奉納 丑年の女」と彫られていて、字体も少し違うので、後年建て直されたものだと思います。裏面にも年代を表す銘などは見当たりませんでした。

厳島社・内井道南

県道392号新城引佐線で弁天橋に至る手前のカーブで鳥居が見えます。内井道の厳島社です。
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空堀のような参道を通ると、トトロの世界に入っていきそうです。
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神前の灯籠は破損が激しいものばかりです。天明5年(1785年)の銘があります。
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自然石を穿った手水鉢がなんともかっこいいです。

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創建は不明ですが、地頭の菅沼氏によって崇められていたようです。社殿腐食で菅沼氏によって宝永2年(1705年)に改修されたそうです。
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御祭神は多紀理比売命、田寸津比売命、市杵島比売命の宗像三女神。市杵島比売命が弁天様と同一とされ、ここから近くの橋が弁天橋と名付けられました。
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県道側の樹木は伐採されているため、社殿の側面はよく見えます。塗装も新しく、大切にされているのが分かります。
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社殿裏には古い石垣や庚申塔がありました。
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祠には何が祀られているのでしょうか。なぜか中には古いTシャツのようなものが入っていました。
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弁天橋顕彰碑・内井道

弁天橋から100mと少し市内側に大きな顕彰碑が立っています。離れすぎていて、橋との関係に気づきにくいくらいです。
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奥に見えるこんもりした森が厳島神社、その向こう側に弁天橋があります。
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かなり大きな石碑で、びっしりと文字が刻まれています。
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台座の部分はコンクリートでできていますが、ちゃんと階段まで作られています。(草で隠れていますが)
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「弁天橋の碑」と書かれているのでしょうか。
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表面にはこの橋を使った経緯や、尽力した方々の名前が漢文体でびっしりと綴られています。
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明治43年と刻まれています。初代の弁天橋は明治に作られたようです。

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裏面には架橋同時に資金を出した方の名前と金額が刻まれています。金額から、いかに大きな事業であったのかが伺えます。
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橋を架けるというのはとても大きな仕事ですが、それによってそこに暮らす住民の生活が一変します。だから今でも新しい橋がどんどんと架けられ、古い橋も何度も架け替えられていきます。一度興味をもつと、なかなか深い世界ですよ。

弁天橋顕彰碑・内井道

弁天橋から100mと少し市内側に大きな顕彰碑が立っています。離れすぎていて、橋との関係に気づきにくいくらいです。
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奥に見えるこんもりした森が厳島神社、その向こう側に弁天橋があります。
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かなり大きな石碑で、びっしりと文字が刻まれています。
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台座の部分はコンクリートでできていますが、ちゃんと階段まで作られています。(草で隠れていますが)
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「弁天橋の碑」と書かれているのでしょうか。
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表面にはこの橋を使った経緯や、尽力した方々の名前が漢文体でびっしりと綴られています。
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明治43年と刻まれています。初代の弁天橋は明治に作られたようです。

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裏面には架橋同時に資金を出した方の名前と金額が刻まれています。金額から、いかに大きな事業であったのかが伺えます。
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橋を架けるというのはとても大きな仕事ですが、それによってそこに暮らす住民の生活が一変します。だから今でも新しい橋がどんどんと架けられ、古い橋も何度も架け替えられていきます。一度興味をもつと、なかなか深い世界ですよ。

弁天橋・内井道南

新城で「赤い橋」と言ったら通じるくらい親しまれている橋。県道392号新城引佐線が豊川を渡るところに架かっています。
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昭和31年(1956年)に造られ、橋長97.8m、橋幅5.3m。名前は橋の袂にある厳島神社に因んだものです。
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橋幅に対して交通量が多く、危険であることから平成4年(1992年)に上流側には橋幅2.5mの歩道橋が架けられました。
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ランガー橋と呼ばれるアーチ橋の一種で、真っ直ぐな橋桁の上にアーチを形成し、縦にまっすぐの鋼材で繋いでいます。
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アーチはあくまでも力を逃すものであって、補鋼桁と呼ばれる橋桁の力が強いことがわかります。
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最新の塗装は平成15年(2003年)。橋にはこういう表示もあるので、探すと楽しめるんです。
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上流側は大きく川が蛇行しています。
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下流側は岩肌がごつごつしていて勇壮な景観。でもこちら側は車道の橋なので車通りが多くとても怖いので、お勧めしません。
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この橋があるかないかで住民の生活が大きく変わります。そのため架橋の顕彰碑も少し離れたところに建てられています。

学橋・日吉

新城市の健康の道の途中に、とても味わい深い石橋があります。舟着こども園の脇、古田喜三郎先生碑の横の道から入っていきます(観光の道のルートでは川の向こう、日吉神社の方からです)。
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近くの舟着小学校のマラソンコースなのでしょうか、ちょうど矢印が書かれていました。健康の道の表示もあります。
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急な坂道ですが、手摺りもあって整備が行き届いています。奥の方に橋が見えています。
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昭和33年に改築された素敵な石橋です。苔が味わいを演出しています。以前来た時にはなかった、路肩が崩れるのを防ぐための土嚢が積まれています。
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橋の名前は「学橋」。この橋を渡って学校に通ったからでしょうか。下を流れるのは大入川です。

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橋の反対側から見ると、全体がよく分かります。
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橋の上流側には真ん中に大きな岩があり、流れが二つに分かれて、橋の下で一つに戻ります。
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下流側には澄んだ大きな淵ができています。
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ここには「番匠貝津(ばんじょうげつ)の髪洗いばばあ」の昔話が伝わります。不精で髪も梳かない妻が、綺麗好きな夫と揉め、自暴自棄になった夫が酒に溺れて亡くなってしまいました。悲しんだ妻はこの淵で髪を梳き続けたそうです。雨や曇りの日の夕方に、この橋で髪の長いおばあさんが目撃されるとのことです。
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橋の欄干には苔だけでなく、葉っぱまで生えています。なんだか愛おしいです。
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66年前に架けられた橋のため、いつ渡れなくなってしまうのか心配です。

大野田城跡・野田

中市場の津島神社側に、明治期に作られた中市場池という溜池があります。この池は大野田城の本丸跡を切り崩して作られたもので、道路沿いに説明看板が立てられています。
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池の向こう側に市の指定文化財であることを示す白い碑が立っています。
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少し前までは鬱蒼とした雑木林や竹林だったのですが、ちさと郷土研究会の方々によって、綺麗に整備がされました。池の横の細い道から入って行けます。
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入り口には旗が立ち、竹や大鋸屑を使って歩道も整備されています。
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建武の新政の頃に富永氏の出城として砦が作られ、応永年間には城所浄古斎の砦として使われていました。菅沼定盈が桶狭間の戦いの後今川を離反し、怒った氏真によって定盈の野田城が攻められました。城を明け渡した定盈でしたが、再度奪い返します。
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戦いによって大破した野田城を修復する間、定盈は浄古斎の砦跡を本丸とし、二の丸、三の丸と拡充して大野田城を築城しました。しかし、武田信玄によって攻められた定盈は、城に火をつけ、豊橋の西郷に逃れたと言われています。ただし、近年の研究では長篠に逃れたとも言われています。
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現在は椎茸栽培にも利用されていますが、土塁や堀の跡が確認できます。池のほとりには、池を作った時のものであろう石垣と、保食命御嶽神社の石碑とお不動様の石像がありました。
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市の指定文化財を示す碑に向かう道もありますが、「大野田城」の文字は池側に向かっていて、手を伸ばして写真を撮ることしかできませんでした。
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道沿いでは伐採した木を処理しているようです。この大鋸屑を歩道に使っているのでしょうか。
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たった9年間しか存在しなかった大野田城ですが、今も地域の方々によって大切に守られています。