淵龍寺・大野
天徳山淵龍寺は、臨済宗方広寺派で、ご本尊は十一面観音菩薩です。開基は応永10年(1403年)方広寺の第二世悦翁和尚で、大野の領主鈴木喜三郎の縁者でした。和尚は大野にあった禅林寺で修行していましたが、喜三郎が禅林寺を今の場所に移して淵龍寺となったようです。
山門横には真っ赤な鳥居と幟が並ぶ天徳稲荷があります。大野にはお寺と縁のあるお稲荷さんがたくさんあるようです。
天正3年(1575年)の長篠・設楽原の戦で戦火に遭い、全て焼失してしまったそうです。天正10年(1582年)に再興され、将軍家光公より、朱印22石を賜って明治維新を迎えました。
明治の廃仏毀釈の難に遭い、ほとんどの建物が壊されましたが、庫裡だけが残されました。その後少しずつ復興し、明治11年に永明庵を、明治24年には不二庵を合併して今に至っています。
庫裡の前にある大木は「先祖返りのヒヨクヒバ」と呼ばれ、下の部分がスイリュウヒバ、上の部分がその原種であるサワラだと言われています。
本堂と境内の墓地の間には大野領主で禅林寺開山の鈴木喜三郎隆友の墓碑があります。禅林寺を移して淵龍寺を開山した鈴木喜三郎玄喜は二代目領主です。
このお寺から飯田線三河大野駅に向かう途中に、立派な石仏がありますが、個人の敷地のようで銘などを確認することができません。お地蔵様のようであり、弘法様のようであり。しかし、手に錫杖や宝珠も独鈷も持っていません。
お寺の駐車場には桜の花が鮮やかに咲いていました。通りから少し奥まったところにあるお寺ですが、明るくて素敵なお寺でした。
※追記(鳳来町誌より)
大野の黒渕というところに龍が住んでいて、田畑を荒らしたり、人々に危害を加えたりしたという。大野の領主鈴木喜三郎の縁者悦翁は、この龍を封じ込めようと、黒淵の岸で読経を続け、龍を封じ止めたという。そこから彼が開基となったこの寺は淵龍寺と名付けられ、龍の白骨が寺宝として保存されているという。