延寿庵・八名井
琴森稲荷・大野
永明庵跡のある東陽小学校のプール脇に「霊感あらたかな琴森稲荷」の看板があり、山の中に続く細い道が見えます。
数年前までは登り口にも真っ赤な鳥居があり、お稲荷さんがあることが明確でしたが、古くなって危険だったのか、現在は撤去されています。
ジグザグ道に手すりがついていて、なんだかわくわくする道です。
途中一箇所だけ分かれ道がありますが、右に進んでください。左の方が石段ぽいですが、何もありません。
分かれ道からすぐに赤い幟旗がたくさん見えてきます。真新しい布地なので、最近お祭があったのでしょうか。
琴森稲荷は、大野の領主鈴木喜三郎が、城山の南の鎮守として築かれ、後に永明庵の守護神としても祀られたそうです。
大野は古くは秋葉街道の宿場町として栄えました。そのため、このお稲荷さんも商売繁盛の神様や、無くし物をした時の神様として崇敬され、今でも参詣者が絶えないとのことです。
永明庵跡・大野
臨済宗方広寺派の永明庵(ようめいあん)は、十一面観世音をご本尊とするお寺でした。少し離れた東南の山中に修行堂を持っていたと伝わりますが、琴森稲荷のことでしょうか。江戸末期に衰退し、廃仏毀釈の影響で無檀無住となっていたので、明治11年に淵龍寺に合併されました。
高台にある庵跡は明治37年には大野小学校が建てられ、昭和51年に大野、豊栄、能登瀬、細川、阿寺の5校が合併して現在の東陽小学校として、この地に残っています。
小学校の坂を登った玄関前にはカヤの古木があります。これは永明庵の境内にあったものだと言われています。
たくさん広がった枝は、子どもたちに日影を作ってくれます。
瑞穂稲荷と不二庵跡・大野
大野の旧街道を進むと、たくさんの花が咲いている一角があります。そこに「不二庵跡」「瑞穂稲荷」と書かれた看板があります。
花だけでなく、立派な枝ぶりの松もあります。手入れも行き届いています。
曲がってみると「庚申石仏」の文字も。期待が膨らみます。
現在瑞穂稲荷が建つこの場所は、元々は不二庵というお寺がありました。天正元年(1573年)に光山天宝和尚によって開山された不二庵では、永禄年間に名僧春岳祖栄が修行し、淵龍寺中興の祖となりました。
春岳祖栄は稲荷を深く信仰したとのことで、境内に勧進したのが瑞穂稲荷です。
廃仏毀釈の影響で無檀無住となり、明治24年に淵龍寺に合併という形を取りました。しかし稲荷社だけはここに残し、共同墓地の関係者によって今も盛大に祭りが行われています。声をかけてくださった方が元区長さんで、謂れをたくさん教えてくださいました。廃仏毀釈の影響でお墓を神道のものとし、仏道のものと合わせて広げられたそうです。
社殿前の石灯籠は普通よりも小さく、可愛らしいものでした。
境内にある丸い石が力石で、92.6kgもあり、昔の人々が力比べに使ったものだそうです。
境内にはとても古い石仏が二つあります。更新の石像は享保12年(1727年)の名があります。
観音像は風化が進み、お顔も年代もよく見えなくなっていました。
東陽小学校の運動場のすぐ横にあり、子どもたちの声が聞こえる明るいお稲荷さんでした。
淵龍寺・大野
天徳山淵龍寺は、臨済宗方広寺派で、ご本尊は十一面観音菩薩です。開基は応永10年(1403年)方広寺の第二世悦翁和尚で、大野の領主鈴木喜三郎の縁者でした。和尚は大野にあった禅林寺で修行していましたが、喜三郎が禅林寺を今の場所に移して淵龍寺となったようです。
山門横には真っ赤な鳥居と幟が並ぶ天徳稲荷があります。大野にはお寺と縁のあるお稲荷さんがたくさんあるようです。
天正3年(1575年)の長篠・設楽原の戦で戦火に遭い、全て焼失してしまったそうです。天正10年(1582年)に再興され、将軍家光公より、朱印22石を賜って明治維新を迎えました。
明治の廃仏毀釈の難に遭い、ほとんどの建物が壊されましたが、庫裡だけが残されました。その後少しずつ復興し、明治11年に永明庵を、明治24年には不二庵を合併して今に至っています。
庫裡の前にある大木は「先祖返りのヒヨクヒバ」と呼ばれ、下の部分がスイリュウヒバ、上の部分がその原種であるサワラだと言われています。
本堂と境内の墓地の間には大野領主で禅林寺開山の鈴木喜三郎隆友の墓碑があります。禅林寺を移して淵龍寺を開山した鈴木喜三郎玄喜は二代目領主です。
このお寺から飯田線三河大野駅に向かう途中に、立派な石仏がありますが、個人の敷地のようで銘などを確認することができません。お地蔵様のようであり、弘法様のようであり。しかし、手に錫杖や宝珠も独鈷も持っていません。
お寺の駐車場には桜の花が鮮やかに咲いていました。通りから少し奥まったところにあるお寺ですが、明るくて素敵なお寺でした。