新城市立鳳来中部小学校北側の斜面に鎮座する小さな神社です。
決して広くない境内に、様々な石造物がありますが、その全てについて説明看板にまとめられているのが嬉しいです。
急な石段を登ると社殿があり、これで全部という小さな神社です。
この地に金比羅様が勧請された年代は詳しく伝わっていませんが、享和3年(1803年)に再造立されたことはわかっています。
現在の社殿は平成7年に長篠区民の熱意により再建されたとのこと。今も区民によって管理されています。
不動明王像や役行者像など、バラエティ溢れる石造物が並んでいます。
弁天橋顕彰碑・内井道
弁天橋から100mと少し市内側に大きな顕彰碑が立っています。離れすぎていて、橋との関係に気づきにくいくらいです。
奥に見えるこんもりした森が厳島神社、その向こう側に弁天橋があります。
かなり大きな石碑で、びっしりと文字が刻まれています。
台座の部分はコンクリートでできていますが、ちゃんと階段まで作られています。(草で隠れていますが)
「弁天橋の碑」と書かれているのでしょうか。
表面にはこの橋を使った経緯や、尽力した方々の名前が漢文体でびっしりと綴られています。
明治43年と刻まれています。初代の弁天橋は明治に作られたようです。
橋を架けるというのはとても大きな仕事ですが、それによってそこに暮らす住民の生活が一変します。だから今でも新しい橋がどんどんと架けられ、古い橋も何度も架け替えられていきます。一度興味をもつと、なかなか深い世界ですよ。
弁天橋顕彰碑・内井道
弁天橋から100mと少し市内側に大きな顕彰碑が立っています。離れすぎていて、橋との関係に気づきにくいくらいです。
奥に見えるこんもりした森が厳島神社、その向こう側に弁天橋があります。
かなり大きな石碑で、びっしりと文字が刻まれています。
台座の部分はコンクリートでできていますが、ちゃんと階段まで作られています。(草で隠れていますが)
「弁天橋の碑」と書かれているのでしょうか。
表面にはこの橋を使った経緯や、尽力した方々の名前が漢文体でびっしりと綴られています。
明治43年と刻まれています。初代の弁天橋は明治に作られたようです。
橋を架けるというのはとても大きな仕事ですが、それによってそこに暮らす住民の生活が一変します。だから今でも新しい橋がどんどんと架けられ、古い橋も何度も架け替えられていきます。一度興味をもつと、なかなか深い世界ですよ。
弁天橋・内井道南
新城で「赤い橋」と言ったら通じるくらい親しまれている橋。県道392号新城引佐線が豊川を渡るところに架かっています。
昭和31年(1956年)に造られ、橋長97.8m、橋幅5.3m。名前は橋の袂にある厳島神社に因んだものです。
橋幅に対して交通量が多く、危険であることから平成4年(1992年)に上流側には橋幅2.5mの歩道橋が架けられました。
ランガー橋と呼ばれるアーチ橋の一種で、真っ直ぐな橋桁の上にアーチを形成し、縦にまっすぐの鋼材で繋いでいます。
アーチはあくまでも力を逃すものであって、補鋼桁と呼ばれる橋桁の力が強いことがわかります。
この橋があるかないかで住民の生活が大きく変わります。そのため架橋の顕彰碑も少し離れたところに建てられています。